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「原発にさようなら集会」&「原発にさようなら1000万人署名」

スタート記者会見全文

6月15日に行われた「原発にさようなら集会」&「原発にさようなら1000万人署名」スタート記者会見での呼びかけ人の発言全文です。

●澤地久枝さん

 おはようございます。澤地久枝です。この運動を始めるにあたって、まだ何の下相談もしていません。ただ共通しているのは、「原発を止めたい」ということです。
 自民党の石原伸晃幹事長は、脱原発を「集団ヒステリー」と言ったそうです。新聞やテレビを見ていても、「もう大丈夫」であるとか、「原発を止めたら日本は滅びる」とか、「安全である」とか、原発に対して疑問を持つ人たちを引き戻そうとするものが目に付きます。
日本が世界に先駆けて、はっきりと、核兵器はもとより原発を無くす方向へ、国の政治を変えていくべきだと思います。これは本当に正論だと思います。だけれども、そう考えている人たちが、テレビや新聞に出てきて、物を言える社会でしょうか。そうじゃありません。
 ここに来る途中に乗ったタクシーで、運転手さんにそういう話をしたら、「どうそ、がんばってください」と言われました。「何かやらないのか」と思っている人は、たくさんいると思うのです。何もしないでいたら、このまま進んでしまいそうです。知らない間に、原発が54基もできてしまったのです。そして案じていた通りに原発の事故が起きて、水素爆発も起きてしまったのです。私は最初からメルトダウンが起きていると思っていましたから、子どもたちの集団疎開も必要だと思いました。
 でも政府や、原子力安全・保安院の発表は、一日一日と変わりましたね。はっきりとした数字も見せません。つまり私たちは、知る権利があるのに、知らされていない状態に、放置されていたのです。
 政権が交代するのかどうかわかりません。国会では「政治ごっこ」をしています。この事態に対して具体的な手を打てる、一人の政治家もいないのです。それなら、いまこそ衆智を集めなければならないと思うのです。その時に誰が首相かは、二の次だと思うのです。勇気を持て、やれる人を、私たちは首相として選びたいのです。菅さんを変えなければならない理由はありませんが、新聞やテレビを見ているとその話ばかりです。

 そうした事態の中で、自分に何ができるのかを考えました。私一人の力は本当に小さいけれども、原発はいやだという気持ち、危ない物を持ってしまったことが世界に対して恥ずかしい気持ちがあります。なぜなら、広島・長崎があり、第五福竜丸があり、東海村のJCO事故があり、日本は他の国にはない被爆の歴史を背負っているのです。原発が54基あり、その安全管理が実に杜撰であることが、明らかになりました。今度の事故でも、最初に被爆した3人の作業員のうち2人は、長靴も履かずに放射能に汚染された水に入っていって、被爆したのです。こういう核のエネルギーに対する無警戒、あるいは無知な態度は、一人の日本人として、世界に対して恥ずかしいと思うのです。
 致命的なダメージは、これから育っていく子どもたちの身の上に起きるということが、チェルノブイリ事故の実例などをあげて、さんざん、語られてきたことです。いまも「安全だ」と言いながら、屋外では遊ばせないで、部屋の中で遊ばせるようにとか、全然安全でない指示が流れているのです。こうしたことに対して、はっきりと疑問を投げかける場所がないのです。

 1人の力は小さいです。しかし1000万人が「原発はいやだ」と署名したら、いくら頭の良くない政治家であっても、それは無視できないと思うのです。これは100万人では、ダメだと思うのです。人を動かすことができる数字は、1000万人だと思うのです。鎌田さんから提案をもらった時に、鎌田さんにそういう話をしたら同じ意見でした。1000万人の署名はできます。いまバラバラに運動が始まっていますが、一つの形を作って、呼びかけ人の責任で取りまとめて、政治家たちに突きつます。その実績を早く作りたいのです。 署名に際しては、自分の意思で名前を書ける人は、年齢制限は必要ないと思います。ハンディキャップを持っていて自筆で書けない人は、そのむね記して誰かが代筆する。そうした幅の広い署名をやっていきたいと思います。最初は18歳以上とか、20歳以上とか、有権者とか、年齢制限を考えたのです。でもいま関心を持っているのは、子どもたちも同じです。ですから年齢制限なしで、自筆の署名を1000万人集めます。 この事故は、日本だけの問題では済みません。海には仕切りはありません。空気にも仕切りはありません。ですから、朝鮮半島や、アメリカ西海岸や、台湾で、福島原発の事故による放射能被害が出ているのです。地球に対する致命傷になるようなマイナスなことを、日本はやってしまったのです。私は恥じたいと思います。恥じるだけでなく、行動に移したいと思います。
亡くなった小田実さんは、「一人でもやる、一人でもやめる」といていました。「小さな人間が、大きな人間を動かす」とも言っていました。思ったことを口に出し、政策として実行することを小田さんは実現していました。
その小田さんが亡くなりました。加藤周一さんが亡くなりました。井上ひさしさんも亡くなりました。日本の良心だと思われていた人たちが、亡くなり、また具合が悪くなり、こうした場所に、出てこられなくなりました。出てくることができない人たちも、「やらなければならない」という意思があることは、はっきりしています。ですから私は、出てくることができない人、亡くなった人たちも含めて、そうした人たちの思いを背負って、この場に来ました。
みなさん、どうぞこの問題を理解していただき、人々に広めていただきたいと思います。よろしくお願いします。

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●内橋克人さん

内橋克人と申します。みなさん、おはようございます。今日は本当にありがとうございます。鎌田さんから、声かけられました。今、やはり声を上げて行動しなければいけないとこういう決意、非常に深いものがあります。

私は、経済の世界、世界経済、日本経済ですけれども、ちょうど53年、54年目と、半世紀以上、眺めてまいりました。当初、私は、経済、それから技術、とりわけ匠の時代という日本の技術の先端というのですか、技術大国といわれるとようになりました、開発という形でそのきっかけを作った人々、そういったものから取り掛かったわけです。
ちょうど今から25年前に、「原発への警鐘」という本を書きました。今から29年、30年前に、アメリカから原発が導入されてくる。福島第一原子力発電所の1号機の開発が、どのようにして行われたのかというところから歩き始めました。そして、関わった人たちの証言をそれぞれ得ながら、現場を歩きました。
当初は、原発に対して賛成でもなく反対でもないという、皆さん方と同じような関心の持ち方、立場でした。それで取材し、とにかく自分の目で確かめるというこういうことをはじめたわけです。そういたしますと、今も覚えていいますけれども、ひとつは原子力発電エネルギーに対して、疑いを持つ、意義を呈する者は、「科学の国のドン・キホーテ」だといわれたのです。先端的な科学立国である日本の中で、もう本当に遅れた前世紀の遺物であるようなドン・キホーテだとこういう扱いだったのです。あるいは異端者ですよ。30年も前にそういう経験をして、それを書きました。
もっと覚えておりますのは、島根原発の第二号炉を増設するときです。原子力安全委員会が、公開ヒアリングを行いました。地元の人たちの、住民の意見を聞くということです。ところが、それがまったく儀式に過ぎないということを、取材しまして、行くところ行くところ、全て儀式なのですね。
子どもさんを二人も持っている若いお母さんが、例えば、「島根原発で事故があった場合に、私たちに宍道湖を泳いで逃げろというのか」と、本当に胸詰まる質問を発するのです。そうすると、原子力安全委員会の委員長が議長をしておりましたけれども、一切無視したのです。「私たちはあなた方の話を聞くだけだ」、「私たちは意見を述べない」という、こういう態度、これを終始貫いたのです。ついに通産省の方は、次の発言者をうながす。こういう事態を、長い時間をかけて取材をし、発見いたしました。
そうして何ができたかといいますと、「合意なき国策」なのです。「原子力エネルギーは国策」といっているけれども、国民的な合意は、いつ誰が与えたのか。実際に原発54基と、さらには14基。当時は、原発100基構想がありました。それでもって、この海沿いに、地震列島日本を囲い込んでいくという、何処に行っても、海の景観を見ようと思うと、原子力発電所の設備が目に入ってくるという、日本列島を原発で囲い込んでしまおうというこういう事態が進みつつあったのです。一時は、原発122基構想と唱えられたこともありますね。
「原発への警鐘」の中で、どんどん原子力発電、もちろん技術も含めてですが、それの「合意なき国策」を進めていくそのやり方、これに対して大変に怒りをもつにいたりました。そういうことで様々ございました。そういう中で「科学の国のドン・キホーテ」でした。
それから、市民の漠然とした不安です。生きている人間が、生体、生きている身体として、ごく自然に、どっかやっぱり不安なのではないでしょうか。科学者はそういう風に言うけれども、技術者はそういう風に言うけれども、不安ではないか、漠とした不安というものを持つというのです。それを一切、考慮することない。そういう漠とした不安こそが、実はこれからの、21世紀のリスク社会といわれる世の中で、最も大事な平衡感覚なのです。それを全て無視してしまって、果たして、本当に安全な技術開発、人間の幸せにつながる技術開発はあるかと、そうそういう疑問をどんどんどんどん含めてきたわけです。
そう意味では私は、原子力発電に対する疑問を、30年前に一つの形として、既にまとめているわけです。その中で、「合意なき国策」です。
そして申し上げたいことは、原子力発電そのものを、人間の制御下、アンダーコントロールにおけるものではないということが、事実を調べる中で十分わかってきた。とりわけ、地震列島、この狭い活動期に入った日本列島の中に、原発過密立国というのが、はたして人々の安全、幸せにつながるのかという、大変深い疑問を持ったのです。
そして、福島の今問題になっております1号炉、これが作られる過程も、詳細に証言を得て、再現いたしました。これはフルターンキーです。ターンキーというのは、キーをいただいて、ぐるぐるっと回せば、ダダッとエンジンが動くというのですね。
全てアメリカ人からいただいた、しかも技術者が全て福島にやってきてビレッジをつくって、そして最後にキーをいただいて、それを差し込んでぐるぐる回せば、稼動するという。何にも疑問をさしはさむことが許されない。与えられるものは何でもいただくという、それをそっくりいただくという、そういう状況です。こうした技術開発は、とても危ないと思うのですね。
その結果、アメリカにおいては、一部報道に出されましたけれども、私のコメントも入っていますけれども、アメリカにおいては、台風とかハリケーンとか、そういうものに備えた、原子力発電の設備が造られていたにもかかわらず、日本にそういうものを持ってきていない。日本は一応台風の心配もありますけれども、もっと心配なのは、地震があり、津波なのですね。地震、津波という日本列島の固有の脅威に備える施設、システムになっていない。それをいただいてくるという。これは日本の戦後の技術開発、大変そういう部分が多い、それだけフルターンキーというこういうのはあります。これにも、私は大変議論もちました。そしてそれも、当時の日本の技術者はアメリカに、わずか2週間研修に行っただけなのですよね。
さらに申し上げたいことは、「合意なき国策」と申し上げましたけれども、言うまでもなく、原発利益集団というのが出来上がっていく。原発マネーフローですよね。それは、不毛の民主主義、民主主義とは異なります。私たちは一人一票しか選挙権がないのに、もうひとつの選挙権、もうひとつの選挙民集団、これが日本の経済界で、経済権力を持っている人々が、これを行使している。
例えば某経済団体は、当時の政権政党の自民党、あるいは野党、政策評価というのをやって、AからDまで、ABCDとランク付けをして、政治献金を斡旋するんです。そういうことをやる中で、エネルギーについての態度、その政党が原子力エネルギーに対して前向きなのか、否定的なのか、それをランキングして、政治献金の額を割り振る、それを決めていくという、もうひとつの選挙民集団、経済権力なのです。これが原子力というものを取り囲んだ、利益集団を形成している。その実態も十分にわかってきました。
アメリカで当時、トーマス・F・マンクーゾーというピッツバーク大学の医学博士がいいました。原子力発電や放射線障害について詳しい調査をしておるんですね。マンクーゾー報告というのがございますけれども、それも紹介いたしました。その中で、出てまいりますが、スロー・デスという言葉があります。緩やかなる死です。晩発性の20年、30年かけてゆっくりとやってくる死、これはスロー・デスなのですね。津波で即亡くなってしまう、それはもちろんサドン・デスですね。サドン・デスに対してスロー・デス。においもなければ、香りもなく、色を見ることもできない。めがねでも見えない。何の音もしない。そういった不気味なる放射線で、20年、30年後に、そういう障害が現れて、ゆっくりとした死に向かうというケースが、実際に易学的調査その他で、実に明快にアメリカで調査されていたのです。
それもいただきまして、私は、これを書きました。京大の原子力実験室で、大変良心的なある先生に、正当な評価をしていただいたのです。その当時、その方は助手だったのです。今なお、助手なのです。大変に優れた原子力の科学者であるにもかかわらず、今進めている日本の国策に反するということから、今なお助教、教授になれない。30年経ても、助教、助手ですよね。
こういう、学問研究における差別があります。そうして、原発、エネルギーの排出、エネルギーの消費社会、電力エネルギー消費社会を作り上げていく。そして、国策としての、原子力発電所の建設をすればするほど、原子力以外の自然な再生可能エネルギーへの意思というものをつまんでしまうのです。ますますエネルギー選択の幅を、自ら狭めてしまうのです。とても残念です。私は、北欧デンマークにおけるエネルギー選択、ヨーロッパにおけるエネルギー選択、ずいぶん早く書いてまいりました。90年代半ばに、「共生の大地」といういわゆる岩波新書を書いて、その中に詳しく、各国におけるエネルギー選択のあり方を書いてまいりました。こうした自由なエネルギー選択というのがあるからこそ、技術は進むわけです。
それを、原子力発電、原子力エネルギーに特化させることで、本当はもっと幅の広いエネルギー選択の幅を自ら狭めてしまった。そして「ここに至った」のだと思います。今回の3.11が、人々に及ぼす、世界に及ぼす影響、これは申し上げるまでもなく、結局、人間の制御下置けるものではない。そういう事故の悲惨について、私は、強調させたいです。そして、戦前における軍需産業、これが戦後における原発産業であった。ですから、原発産業で数千億、こういったものを作り上げていくことによって、国内での個人消費がたとえ豊かにならなくても、個人が豊かにならなくても、経済が成長できるような構造をつくっていったのです。戦前は、昭和恐慌から脱出するための軍事産業を興していく、そして戦争につながったのです。戦後は明らかに、原子力エネルギーという部分に、私たちはかつての軍需産業の姿を見ることができるのです。これはどうしても止めなければなりません。
そして、その根底は、様々あると思いますけれども、次にくる世代、さらに次に来る世代のために、どうしても原子力発電をやめなければならない。私たちの国、とりわけこの活動期に入った地震列島日本、これを過密原発立国、原発過密列島にしてはならない。そういうことを何とかして、皆さん方に伝えていただきたいし、私自身もこれからも発言を続けたいとこういうことでございますので、ご理解いただきたいと思います。以上です。

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●鎌田慧さん

 いま原発のある地域は、全部、反対運動のあった地域です。反対運動があったけれども、潰されてきた地域なのです。お金で潰された地域です。僕は全てまわってきましたが、全部お金で潰されているのです。買収されています。電力会社が、何でも寄付し、お金で買ってあげてしまう。それは電力料金にそのまま加算されていますから、ものすごいお金をばら撒くということなのです。
 電源三法で、原発を1基作りますと、最初の建設までの10年間で500億円、稼働してから10年間で400数十億円、20年間で1000億円が入るのです。建設でも5000億円くらいのお金が入りますから、膨大なお金が、地域に流れ込んでいくのです。
 ですから反対運動も、なかなか成立しません。いまでも、ほんの少数の人たちが残っていますが、ほとんどが負けてしまっています。反対すると、「お金を返せ」と言われるのではないかという話もあります。原発は、アン・モラル、非道徳な存在です。全てをお金で解決してきたのです。
 原発体制として、国・官僚・政治家・学者・マスコミ・裁判所が一体化して、頭の上に乗っていました。それがいま、不幸なことですが事故が起きて、それがはじけて、語りやすくなったのです。そういう時に、大きな運動で、押し返していく、そのチャンスなのです。なんとか署名と、集会を、やり遂げていきたいと思います。ヨーロッパに負けないような、大きな力を発揮したいと思います。

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記者から質問に答えて

●鎌田慧さん

 運動の弱さについての質問をいただきました。これは、私の個人的な感想ですが、いままで色んな地域で、反対運動が負け続けてきたのは事実です。裁判をやっても負けました。地域別に各個撃破されてきて、そのことで諦めてしまって、全国をつないで巻きなおそうという力が、無くなってしまったのだと思います。大胆に、積極的に、どんと開いていく、そうした運動が作れませんでした。
住民運動や民衆運動が、大胆な行動を提起したことがありませんでした。これまでは政党や労働組合が中心で、市民自らが手を結んで、大胆に全国的にやっていこうということが少なかったと思います。それは、いろいろな人たちが、力を失っていたからだと思います。
でも、もうそうしたことではいけません。死に物狂いでがんばらなければなりません。それで私たちはロートルですが、いま若い人や女性たちが、あちこちでいろいろな集会をやっています。それは、どこかが司令するのではなくて、本当に個人個人がやっていて、それが段々と大きくなってきています。中央司令部が命令する運動とは違って、根っこ型、ネットワーク型で、いろいろな人が、いろいろな所で、いろいろな思いでやっていま。そうして、反原発、脱原発の運動が広がってきています。そういう人たちと、どうやって一緒にやっていくのかが、今後の課題になります。
今日の記者会見で、「やりましょう!」ということをお伝えして、今後はインターネットなどでお知らせして、実行委員会にも加わってもらいたいと思います。そうしたことで、違った流れを作っていきたいです。 海外の状況を見ても、どんどん脱原発の方向に向かています。簡単にいいますと、核武装しない国は、反原発の方向に向かっていくのですよね。核武装を念頭にないところが、「もう原発はやめよう」となってきているのです。私はそう考えています。
被ばく者の連帯の問題、つまり広島と長崎の被ばく者と、これから出てくる福島の被ばく者の連帯の問題も話題になってくるでしょう。やはり、「核」をどう無くしていくのか、そういうところに向かっていく運動だと思います。

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●内橋克人さん

 これからの進め方について、乗り越えるべき困難があると思います。それは「国策」として原子力エネルギーを進めてきました。また国策として原子力エネルギーを進めていく上で、どういう戦略で、国および電事連が行ってきたのかを、知れば知るほど、手ごわいことが分かります。
 もちろん今は、世界の流れも変わってきました。当時とは、事情は違ってきたと思います。しかし、大変な勝負です。乗り越えるべき困難は、依然として大きいのです。
 PA戦略を、簡単にお話します。3本の柱があります。1つはマスコミのOBを通じての、様々なブラフです。その背後にあるのは、電気事業連合会です。週刊誌やその他の雑誌の、一つ一つの記事をチェックして、厳しい抗議を、くり返し、くり返し行うのです。ちょっとした記事に対して、詰め方が甘いところがありますと、そこをついて何度も、何度も抗議するのです。そすると記者やライターは、萎縮する、自己規制するようになります。それがOBを通じて、企業内の上層部が関わっている場合もあるのです。それがこれから、どう動くのか。

 2番目は教育です。先日、「世界」に書きましたが、教育が徹底して行われています。小学生・中学生・高校生に至るまで、原子力発電、原子力エネルギーが、いかにあなた方の世代のクリーンなエネルギーであるかを、ワークシートつまり教師のための指導要領まで作って、徹底して教え込んでいくのです。成績評価の対象にもなるのです。どこまで理解したかを、教師が児童・生徒を見ながら採点をするのです。ですから、原子力発電は未来にふさわしいエネルギーであることを理解したと示せば、成績もあがる仕組みなのです。それから副読本です。それには巨大な資金を投入しています。「わくわく原子力ランド」などの副読本を、無料で配っています。ワークシートも緻密に作っています。教育の面で、徹底して、原子力の安全教育を行っています。原子力安全神話は、いかにして造られたのか、教育が効果を発揮しています。
 3番目は、パブリシティーです。商業マスコミですから、新聞もテレビも雑誌も、採算が合わなければ困ります。常にスポンサーを必要としています。そういう中で、スポンサーとしてお金を出しながら、パブリシティーをやっています。著名人も、ありとあらゆる人々がその中に入っています。いかに原子力が「極めて科学的なエネルギーか」であり、これを疑う者は時代遅れだと宣伝しています。それをメディアがやってきました。例えば雑誌の巻頭に、グラビアとともに、著名人や名の知れたキャスターを通常は公開しない施設に連れて行って、彼らに語らせるのです。それで原子力発電を、一般の人々にイメージさせていくのです。
 とりわけ電気事業連合会として、組織的にやってきました。文部科学省とも、二人三脚でやっていると思います。そしてメディアへのけん制。そうしたことをやるのです。そうして人々の、漠とした不安を、片隅に追いやっていくのです。それを長年にわたって行ってきました。そうした事実があります。
 いま人々は、身にしみて、危険性を感じている時期ですけれども、この時期が一過性で過ぎてしまうかもしれません。リーマンショックの後も、新自由主義に対する批判などがありましたが、通り過ぎてしまいました。
 しかし、今回は、そういうわけにはいきません。スロー・デスという言葉のように、影響は20年、30年と続くのです。いかに賢明な、聡明な市民になっていくのかが、試されているのだと思います。東北の人々には、本当にいいところがたくさんあります。でも、あまりにも我慢強い。「なぜ分からないのか」と思うぐらいです。それには理由がありますから、よくわかります。でもいまは、怒りというものを、日本中が取り戻す。そうした時期に来ているのではないでしょうか。

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●澤地久枝さん

 いま、福島を考える集会、原発を考える集会を行うと、予想以上に多くの人々が集まり、熱心な会をやっています。私が出席した会の一つは、吉祥寺のお寺の本堂で行われて、50人以上が参加しました。音楽のコンサートをやって、そのあと、福島から来た人たちが、福島の状況を訴えました。「ひどいけれども、私たちは福島でがんばる」と、発言していました。女性が多く、若い人も含めて、非常に熱のある集まりでした。主催者たちは、大変喜んでいました。みんな、「本当のことを知りたい」といっています。情報が足りなすぎます。
私は、日本という国は、市民を本当にばかにしていると思うのです。事故が起きてしまったときに、言うべき言葉があったと思います。それは、「残念なことだけれども、こういう事故が起きた。そして最悪の事態についての見通しを語る。それを避ける努力をしてきているが、避けきれないときにはどういうことが起きる可能性があるのか。その可能性が不幸にも実現してしまったときには、我々はこうする。それでも犠牲が出るかもしれないけれども、冷静に一緒にやっていこう。我々も全力を尽くす」と国民に向かって、呼びかけるべきでした。
少し時間が経ってから、世界に向かって、「救援に感謝します」と言いました。でもその前に「皆さんに対して申し訳ないと思う。我々の国こそが、こういう事故を起こしてはならない国であった。なぜなら過去に、核がいかに恐ろしいかを体験した、世界で唯一の国として、事故を起こしてしまった。その事故の影響は我が国に留まらずに、世界中に影響していくだろう。それは申し訳なかった。」と、まず言ってもらいた方と思います。その上で、お礼を申し上げる。人が何かをするときに順序があるように、国が何かをするときにも順序があると思うのです。
長崎と広島について、記憶が風化してきたのだと思います。原爆投下直後に広島・長崎を通った人、身内に被ばく者を抱えている人、被爆についてこだわって仕事をしてきた人たちは、ずっと同じことを言い続けてきましたが、力は弱かったのでしょう。
では、ダメかというと、そうではないと思います。私は、「ドン・キホーテ」と言われてもいいと思うのです。いま生まれた赤ちゃんが、大人になって、親になる時代が来ます。その時にどうなのかといおう問題があります。さらには、その子ども大きくなってどうなるのか。50年、100年の時間をおいて、核の利用を考えなければならないのです。
いま非常に巧妙な議論がでています。新聞で読んだのですが、アメリカの学者が、核は非常に怖いけれども、核の研究は欠かすことができないと言っているのです。それは、ガンに対する闘いにも有益なことがあるから、やめる事は出来ないというのです。
これは一種の脅しだと思います。核から、何かいいことが生まれてくる可能性は、無いと思った方がいい。核兵器はもちろんですが、原発を含めて、核を引き出した時に、私たちは終末に向かって、歩きだしたのだと思います。
ある高名な人がテレビで、「津波や地震対策は一緒だが、原発に対しては意見が違う」と言っていました。「事故を起こさないようなノウハウを開発して、世界に貢献する道が残っている。原発を否定的に考える意見には、与しない。」と言うのです。
私は1950年に、夜間大学の1年生でした。席に座っていると、署名用紙が回ってきました。「ストックホルム・アピール」だったのです。戦後に反核の署名運動が世界中で行われましたが、その最初が「ストックホルム・アピール」です。私は何もしないで、次の人に回しました。戦争で、いかに自分が馬鹿であったか痛いほど思い知っていたのに、無知を恥じていたのに、「ストックホルム・アピール」を見て、「これに署名したら赤に利用される」と思ったのです。その時に、「赤」がなにかも分かっていないのですよ。戦争が終わって、わずか5年ですよ。その時に、もう考えが汚染されていたのです。
第五福竜丸の久保山さんを取材したことが、ジャーナリストとしての最初の仕事でした。私はずっと、一人のジャーナリストとして、核兵器に対して、戦争に反対する姿勢を守ってきました。
私が勤めをやめる直前のことですが、バートランド・ラッセルという伝説的な偉い人たちがロンドンでデモをやって、警察に捕まることがありました。私はラッセル夫人に、原稿を書いてくれと依頼しました。そして原稿が来ました。「婦人公論」に乗っています。その中には、夫がどういう気持ちでデモを行い、捕まって、牢屋にいるのか、それを書いています。そうした仕事をしてきました。
原発ができ始めた最初のころに、どこかの原発で冷却水が漏れ出す事故が起きました。どういう処置をしたかというと、「ほうき・ちりとり」なのです。これは新聞で読みました。非常に科学的で、高度な技術を必要としている場所で、「ほうき・ちりとり」とは、まさかと思いました。東海村のJCOの事故でも、ステンレスのバケツですよね。それで被ばくして犠牲者が出ています。

フリーの物書きとしてスタートして、一冊の本を書きました。しかし次の注文はこないという状態です。そしたら亡くなった評論家の草柳大蔵さんが、東北電力が春秋にやっている定期講演会の講師に、あなたを推薦する、といってくれたのです。私はそれを受けました。春秋2回、2か所ずつで、私は東北電力参加の、ほとんどの街にいっているのです。そのころにも反原発署名がありました。私は反原発の立場でした。その頃、東北電力は、原発を持っていなかったのです。それだけが、唯一のエクスキューズでした。でも署名はできないと思っていました。何回かたった時に、女川が講演会場でした。扇谷正造さんという週刊朝日の名物編集長と、女川に行きました。講演会の前に、町長だったと思いますが、「原発の話はしないでください」というのです。そのころ女川では、原発の受け入れを巡って、町が割れる騒ぎになっていました。特に漁業の人たちが、魚が獲れなくなる、だれも食べなくなると、絶対反対でした。
しかし給付金が来るのです。貧しいところを、海側を狙い撃ちにするようにして来るのです。そうして悲しいかな、お金に目がくらんで、昨日まで「絶対反対」と言っていた人たちが、だんだんと落ちて行って、最後に女川原発を作られてしまいました。
私は、自分の発言が抑制されることに我慢ができません。私には良識もあるし、女川で何が起きているのか分かっていて、そこに火に油を注ぐようなことは言えないと思っている。でも、その程度の人間であるとも、思ってもらえなかった。その時に決心したのです。
家に帰ってすぐに、反原発署名に署名しました。草柳大蔵さんには、「反原発署名に署名しました。東北電力の講師は辞退します」と告げました。そのころ、有名な人たちが、講師に名前を連ねていました。でもその人たちが、私のようなことで辞めたとは、聞いたことがありません。警戒していないと、いつの間にか、お金や外国旅行で、取り込まれていくのです。
なぜそういうことが起きたのでしょうか。それは、利益最優先の日本の国の在り方が、問題だと思うのです。アフガニスタンで水を引くために活動している中村哲さんが言っていました。アフガニスタンの農民に「幸せは何か」と聞くと、「家族が揃っていて、3度の食事ができる事。それが一番のしあわせ」と言うのだそうです。
そこまで戻ろうとは、いいません。しかし、それが、かけがえのない大切な物だということを、例えば両親を失った子どもたちは分かっています。いっしょにご飯を食べられる、その平穏な日々が、どんなに大切なものなのか。それをいま痛切に感じている人たちが、避難している人の中には、たくさんいると思うのです。 福島の人たちは、私たち全員が直面したかもしれない原発事故による被害を、私たちの代わりに身に受けているのであって、福島で起きたことを忘れてしまうのではなく、福島と一緒に生きていくことを、確認したいと思うのです。福島の人たちは、日々の事柄に追われているかもしれません。そうではない私たちにできることは何か、それが、私がここに来た理由なのです。
私は80歳になりました。子どもも孫もいません。でも小さい子どもたちを見ると、この子たちの未来は、私たちに責任があると、いつも思うのです。
また、人間のことも大切ですが、何万羽もの鳥が死んでしまう。牛が餓死してしまう。まだ生きている牛や、その他の生き物は、「残虐で無い手段で安楽死させる」と政府は発表しました。これが、平和憲法を持っている国で、起きていいことなのでしょうか。つまり、人間を助けて、お金をもたらし、慰安をもたらした生き物たちを、餓死させたり、安楽死させたり。それを子どもたちの目の前で行う。逆な意味で、ものすごい教育効果でしょう。子どもたちは、何もいいません。でも自分たちが見聞きしたことを、生涯忘れないでしょう。
広島と長崎を背負って、私たちは66年間、生きてきました。その歴史の上に立って、いま、発言する意思と勇気のある人たちには、署名に参加して、まわりに呼びかけて、1000万人を超える署名を集めましょう。9月19日の集会には、会場がはち切れることを目標にしましよう。
先日、「9条の会」の関係で、日比谷公会堂に行きました。その途中でタクシーに乗っていると、背広を着た公安警察官がたくさんいるのです。「私たちのような平和な集会になぜ」と思っていたら、タクシーの運転手さんが、「この先の東電本社を守っているのですよ」というのです。機動隊の車もたくさん来ていました。東電に対して怒りがあったり、抗議があったりするのは、当然だと思います。でも警察は、しっかり守っているのですね。東電はその防護の内側にいて、テレビに出ては、キョトンとしたことを言うのです。具体的なデータは出さないで。昨日のテレビで言っていましたが、アメリカは、日本が情報を出さないために、日本不信のようですね。

アメリカにはアメリカの思惑もあるのでしょう。為にする発言もあれば、国家的な発言もある。地震の救援にきた原子力空母は、原発事故が明らかになったら退避しまいましたね。また在日のアメリカ人に避難指示を出しました。
アメリカは、スリーマイル島原発の事故以来、新しい原発は建設していません。でもアメリカと日本の原発関連の大きな資本が、ベトナムへ原発を輸出しようとして、フランスと争っています。前原さんが売り込みにいったりしました。自分の国で起きた事故もコントロールできないのに、他の国に持って行っていいのでしょうか。アメリカはそれをやったのです。
イタリアでは投票に行った人の90パーセントが、原発NOでした。デモのプラカードなどを見ていると、FUKUSHIMAの文字がありました。では、日本はなにをしているのでしょう。原発はいや、命をいとおしむ、かけがえの無い命を大切にする。だから私は、原発をやめる方向へ、国の姿勢を変えたいのです。
結論を先に出して、そこに向かって進んでいく。そのためには、在野の人たちの技術も必要でしょう。その人たちの協力を得る。衆智を結集して対処するのです。 その為には第1に、どうか署名に参加してください。小さなグループも、大きなグループも、それぞれが動いて、一つのものになれば、署名運動は成功するし、集会も成功すると思うのです。
私たちは、政治に絶望すると同時に、日本人であることに絶望しかねない状況にあるのです。それは、自分に絶望することでもあります。でも希望を捨てたら、生きていけないですよ。また未来の世代のために、希望の明かりをまもる義務があると思うのです。
自分が生きてきて、仕事をしてきて、実に多くの、名もない人々の、無残な死を書いてきました。原発という人的事故を、繰り返したくないのです。無残な死は、もう見たくないのです。そのために第1歩が、今日なのです。

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スタート記者会見

INDEX

発言
 澤地久枝さん
 内橋克人さん
 鎌田慧さん
記者から質問に答えて
 鎌田慧さん
 内橋克人さん
 澤地久枝さん

記者会見全文

原発なくそう大田実行委員会